◆ジュリア・カセムさん
京都工芸繊維大学KYOTO Design Lab 特命教授
マンチェスター芸術デザイン大学、東京藝術大学卒業
1984年~1999年 ジャパンタイムズ紙アートコラムニスト
2000年~2014年 ロイヤル・カレッジ・オブ・アートのヘレンハムリン研究センターにて「Challenge Workshops」プログラムを実施
2010年 デザインウィーク誌の「デザインの世界に最も影響を与えた50人」に選ばれる
2014年~ 現職
◆主な出版物
「「インクルーシブデザイン」という発想~排除しないプロセスのデザイン」フィルムアート社、2014年
「インクルーシブデザイン~社会の課題を解決する参加型デザイン」学芸出版社、2014年
Q:近年、日本でも「インクルーシブ」という言葉が広がり始めたことで、「インクルーシブデザインとユニバーサルデザインはどう違うのか」と疑問を持つ方も多いようです。
この2つについて、カセムさんのお考えを聞かせていただけますか?
人を排除するデザインであってはならない
どちらも1990年頃に、インクルーシブデザインはイギリスで、ユニバーサルデザインはアメリカで生まれた言葉ですね。
それまで障害者や高齢者のための製品は、一定の機能を満たすだけで美しくない上に高価でした。私の娘は障害があって子どもの頃、足に補装具をつけていたのですが、それはとても重くて不格好なデザインでしたね。特殊で醜いものを使わされることは人の尊厳を損なうし、周りからの差別や偏見、排除に繋がるスティグマとなります。
そこで障害者自身がデザインの場に参加し、あらゆる人にとって便利で魅力的な商品や環境を創造するという考えが生まれました。これがインクルーシブデザインやユニバーサルデザインです。この流れは、「マイノリティのための商品はお金にならない」というそれまでのイメージを覆し、マジョリティを巻き込む形でビジネスの市場を大きく広げました。
この2つはどちらも、デザインの力で誰かを「エクスクルージョン(排除)」するのではなく、多様な人を「インクルージョン(包摂)」することを目指すものです。それに、最も恐れるのは「ダサい」こと、という点も共通していますね(笑)。
背景やアプローチが異なる
しかし、それぞれが生まれた背景やアプローチなどには違いがあります。
ユニバーサルデザインは、アメリカの障害者権利運動や「障害を持つアメリカ人法」(ADA/1990年)との結びつきが強く、アクセシビリティを障害者の権利として求めているのが特徴です。ロン・メイス氏たちが提唱した7原則やADAのガイドライン等は、プロダクトや建築など特に都市環境における障害者の生活向上で成果を上げました。ただ、一律の原則や規定は開発途上国などにそのまま適用することは難しく、インドでは独自の原則(Universal Design India Principles)がつくられたりしています。
一方、インクルーシブデザインは決まった原則などを持たず、またイギリスにも障害者差別禁止法(DDA/1995年)はありますが、ADAガイドラインのような法的拘束力を伴う詳細な規定があるわけではありません。インクルーシブデザインは、それぞれの事業でデザイナーの主導により柔軟に取り組まれてきたのです。
そのため社会の変化に応じながら、製品や建物、コミュニケーションやサービスなど様々な分野で、また経済的状況や文化的・歴史的背景が異なる幅広い国や地域でも適用されています。
Q:理念を共有する2つの考え方には、それぞれの背景や進化がありますね。
日本では90年代後半からユニバーサルデザインの実践が広がってきましたが、その特徴や課題をどう捉えておられますか? またイギリスとはどんな違いがあるでしょうか?
行政や企業のリード
日本は交通や建築、プロダクトなどの物理的なアクセシビリティがとても優れていますね。たとえば公園でも、園路やトイレなどが使いやすく整備され管理も行き届いています。しかも都市と地方で大きな差がないところも特長で、イギリスとは異なります。
これは国の予算配分の仕方や方針の違いも影響しているでしょう。日本は公共事業に大きな予算が充てられ、主要企業もユニバーサルデザインに積極的な投資をしてきました。おかげで、現在東京で一人暮らしをしている娘は電動車いすでどこへでも行けますよ。日本は行政や企業のリードによって、アクセシブルな環境が等しく築かれてきたと言えます。
イギリスの場合、物ごとに率先して取り組むイニシアチブがありますが、公共事業への予算が少なくて不安定。その上、歴史的建築物などの保存も重視されるので、ロンドンの地下鉄や街の歩道などはとてもアクセシブルとは言えません。整備事業の資金やノウハウを、それぞれ民間や非営利団体、財団などに頼ることも多いので、取り組みのレベルは様々で地域差も大きいですね。
実験的な発想を
反対に日本がとても遅れているのは、コミュニケーションやサービス分野の取り組みです。これは日本の「インクルージョン」がまだ「障害者や高齢者のためのもの」に留まっているためでしょう。例えばコロナ禍の今、ワクチン接種などの重要な情報が英語ではほとんど届かず、日本で暮らす外国人は大変不安な状況に置かれています。
イギリスやヨーロッパは移民社会に変わる中で、情報やサービスをより多様な人へ簡潔に提供する必要性が増したことから、コミュニケーション分野のインクルージョンが大きく進みました。
日本にもイギリスにも、それぞれ良いところと遅れているところがあるので、お互いの良い部分を取り入れていけるといいですよね。
それとデザイン業界で言えば、イギリスではデザインは企業のインハウスデザイナーよりも外部のデザイン会社がするのが一般的で、デザイン会社間の競争があります。デザイン会社は、限られた予算の中で知恵を絞って良い結果を出せば、それが自身の価値となって次の仕事につながります。アイデアと創造性、そして「とにかくやってみよう!」という実験的な発想を持つことが何より重要なんです。
日本でも独立したデザイナーが増えていますし、こうした実験的な発想で多様性とインクルージョンに応えていってほしいですね。
Q:柔軟でクリエイティブな思考がデザインの幅を広げますね。
カセムさんがインクルーシブデザインの道に進まれたのは、ある美術館の企画に携わられたのが一つのきっかけだそうですね。どのような気づきがあったのですか?
エクストリーム → メインストリーム
1994年、私は名古屋でジャパンタイムズ紙のコラムニストをしていたのですが、同市立美術館から視覚に障害のある人が楽しめる近代美術展の企画にキュレーターとして招かれたんです。その頃の美術館は、物理的アクセシビリティの向上には取り組んでいましたが、来館者の認知的・心理的・感情的アクセスには応えられていない状態でした。建物や作品はとても立派なのに、伝え方がつまらなかったのです。
私は地元の当事者の方たちと一緒に、どうすれば視覚に障害のある人が芸術を楽しめるかを考え抜いて、作品の展示方法や情報の伝え方を工夫しました。直接作品に触れられるようにしたのはもちろん、点字やカラー写真を載せたカタログ、アーティスト自身の語りが入った音声ガイドなど様々な工夫を凝らしたんです。
するとその美術展は、視覚障害者はもちろん、近代美術への関心や知識が薄かった一般の人たちからも大きな好評を得ました。障害のある人の立場でビジュアルリテラシーを追求することは、制限や否定とは反対のとても創造的な作業で、結果としてみんなが喜ぶものとなったのです。
そこから、「エクストリーム(周縁)の人たちを理解することでメインストリーム(主流)に革新をもたらす」という「エクストリーム・シナリオ」の考え方に行き着きました。
エクストリームから考えていけばメインストリームを良くすることができますが、その逆はありません。これまでユーザーと見なされていなかった人々のニーズにこそ目を向ける必要があるのです。
みんなの場所に
そもそも美術館は、まちの図書館と同じフリー・ラーニング・スペース、つまり「みんなのもの」であるべきです。
じつはイギリスの美術館も、以前は学者や美術に詳しい一部の人のための場所でしたが、1989年に国が示した学校教育カリキュラムに文化施設の活用が組み込まれたことが一つの転機となりました。それぞれの施設が、特別支援学校の生徒を含む多様な子どもたちに作品の魅力をうまく伝えようとマルチレベルの工夫を凝らすようになったのです。今では、美術館や博物館は幅広い人に愛される「私たちの場所」になっています。
こうした施設は、コミュニティにおける貴重な実験の場になれると思いますよ。
Q:「みんなの場所に」というのは、公園にも通じるお話ですね。
そうしたご経験をもとに、イギリスのロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA)に新しくできたヘレンハムリン・センター・フォー・デザイン※に赴任され、インクルーシブデザインのための「チャレンジ・プログラム」を始められたのですね。
このワークショップの特徴を教えていただけますか?
ユーザーとのコラボレーション
デザインプロセスの最初の段階から障害を持つ人とデザイナーがチームを組み、対話を通じたコラボレーションで新たなデザインを生み出していく仕組みです。
じつは最初、関連情報などをまとめた資料集をつくってデザイナーに配ったこともあったのですが、うまくいきませんでした。デザイナーの中にはディスレクシア(読字障害)の人もいますし(RCAでは30%)、解説書などを読むよりユーザーと直接対話をする方がずっと合理的だったのです。
障害のある人は、デザイナーが思いもかけないような場面で困難を感じていたり、それを独自の工夫で乗り切ったりしているものです。チャレンジ・プログラムでは、ユーザーとデザイナーが「対等な立場」でクリエイティブな対話を重ねて情報を交換します。もしデザイナーが「かわいそうな障害者を助けてあげる」といった一方的な考えだとしたらそれはとても不遜だし、プロではありません。相互に利益があり、価値観のバランスが取れていることが重要なんです。
これまで日本を含む世界20ヵ国以上で実践してきましたが、ユーザーのエクストリーム(極端)なニーズを直接的に理解できるこのワークショップのプログラムは、デザイナーの創造性をかき立てて革新的なものづくりにつながっています。
※「ヘレンハムリン・センター・フォー・デザイン」:1999年、インクルーシブデザインの提唱者ロジャー・コールマン教授らにより、ロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA)に設立されたデザインの研究所
Q:対話に基づくユーザーとデザイナーの協働が鍵ですね。
公園の遊び場のユーザーは子どもたちですが、子どもを対象にしたワークショップも可能でしょうか?
表現しやすい方法で
可能だと思いますよ。誰もがアイデアやそのヒントとなる経験を持っていますから。
ただ、ファシリテーターの役割がとても重要になるでしょう。子どもたちが自分の思いを表現できるよう、ワークショップの仕組みそのものをデザインする必要があります。よくあるポストイットを使うような真面目くさった内容ではだめですね。(私自身、ポストイットに書くのは苦手で大嫌いなんです・笑)
たとえばレゴブロックや粘土、百円ショップのあれこれなど、子どもに馴染みのある素材を使って自由に公園をつくってもらい、それがどんなところかを説明してもらうのも良いでしょう。
またそのワークショップには遊具や遊び場のデザイナーだけでなく、自治体の公園課の人にも参加してほしいですね。特に役所の方はよくオブザーバー(見学者)でいたがりますが、私は「それはダメです。みんなで考えて、みんなでつくるんですよ」と必ず加わってもらいます。私のワークショップでは“No observers. No Post-it. Lots of tools.(見学者禁止・ポストイット禁止・素材たっぷり)”です(笑)。
心理的なニーズにも
多様な人たちでクリエイティブに考えれば、必ずいいアイデアが出てきます。それはなにも高価な遊具や立派な設備とは限りません。とてもシンプルな作戦で意味のあることだってできるんです。
たとえば「バディ・ベンチ」の取り組みもそう。学校の休み時間に誰かと話したり遊んだりしたいけれど自分からは声を掛けにくい子どものために、校庭に特別なベンチを一つ置くアイデアです。孤独を感じている子どもがそこに座ると、すぐに誰かが気づいて誘ってくれるので、いじめの防止にも繋がっていますよね。
公園の遊び場にも物理的ニーズだけでなく心理的なニーズがあるはずなので、障害のある子どもの意見をもとにソフト面でのアプローチも考えていくことが大切でしょう。
Q:子ども自身を含む多様なユーザーが、遊び場づくりのプロセスに参加することが不可欠ですね。
日本でも障害のある子どもの保護者の方たちが、インクルーシブな遊び場を実現しようと自治体に働きかけたり自ら団体を立ち上げたりされています。
最後にこうした皆さんへメッセージをいただけますか?
「自分でやってみよう!」
娘がまだ幼かった頃の私の経験をお話ししましょう。
その頃、私はイギリスの子ども病院の専門家から、娘が「4才までは歩けず、歩けるとしても10分まで」と告げられ、コミュニケーションの力をつけるために「易しい英語でたくさん話しかけること」、そして「人との関わりを通して社会化を図ること」という助言をもらっていました。でも東京から名古屋の大きな複合型マンションに引っ越してきたばかりの私には知り合いが一人もおらず、歩けない娘を連れて公園に行くこともできませんでした。
そこで「英語のプレイグループをつくりましょう!」というチラシを作って、名古屋国際センターの掲示板に貼り出したんです。するとすぐに、ニュージーランドやアメリカから来て子育てをしていた母親たちが参加してくれ、毎週水曜日にバイカルチュラルの子どもと親たちのプレイグループがスタートしました。障害があるのは娘だけでしたが、子育てをする中で同じようなニーズを抱えていた人は他にもいたんです。
読書や粘土、絵や音楽、ダンスなどいろんなことをしましたよ。おかげで子どもも友達ができ、みんな一緒に中庭でお弁当を食べたりと楽しかったですね。その後、私は名古屋を離れたのですが、つい最近、思いがけない連絡をもらいました。なんとこのプレイグループは、30年以上経った今も楽しく活動しているそうなんです!
障害のある子どものお母さんたちには、ぜひ「やってみよう!」という気持ちを持ってほしいですね。行政や専門家ばかりに期待していないで、まず自分でやってみることです。するとそれを見て「これはいいことだ!」とサポーターになってくれる人がきっと現れます。人生はスペクトラム(連続体)。生きていれば誰もが病気やけが、老いを経験しますし、家族や知り合いの中にじつは障害や多様な背景を持つ人がいるなどして、あなたに共感してくれる人はいるものです。
アクティブな発想が大事ですよ。私はあまり失敗することを考えません。失敗してもいいんですよ。自分のわがままなニーズに応えるため、ぜひ実験的な気分で踏み出してほしいですね。
――貴重なお話をありがとうございました。
(2021年5月11日のインタビューより)